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2013.12.30

Vol.20 【山手/本牧/根岸・明治時代】明治時代に形成された景勝地や別荘。かつての顔は住民の憩いの場に。

外国人居留地に数多くの洋館が建ち並んでいた山手

横浜山手の洋館

横浜山手の洋館

明治に入っても山手は主に外国人居留地として使用され続けていました。この地が外国人に気に入られた理由には、当時起こった生麦事件の影響がありますが、景勝地として環境の良さも大きく影響していました。当時、区画割りされた土地には番号がふられ、居留する外国人からは「BLUFF(ブラフ)3」、「BLUFF5」などと呼ばれていました。この頃には山手公園がつくられ、この公園は日本で始めてテニスがプレーされた地となっており、現在でも園内には「横浜山手テニス発祥記念館」があります。また、明治時代の山手地区には洋館が数多く建てられました。後の関東大震災により、そのほとんどは無くなってしまいましたが、戦後、さまざまな土地に建てられていた洋館が山手の土地に移築されています。

景勝地として愛されるほか、競馬も盛んに開催された根岸

明治に入ると、根岸地区は景勝地として外国人だけでなく日本人にも愛される地となり、別荘や邸宅が建ち並ぶようになります。根岸には現在でも近代和風建築を楽しめる旧・柳下邸が「根岸なつかし公園」として残っています。また、1866(慶応2)年につくられた根岸競馬場は、明治時代に入ると本格的に外国居留人たちの社交の場となります。1882(明治15)年から1899(明治32)年までのあいだにかけて、明治天皇が12回も行幸しました。その後の関東大震災によって当時のスタンドは倒壊してしまいますが、鉄筋コンクリート造の巨大スタンドとして復旧され、1942(昭和17)年まで利用されました。

本牧には純日本式の邸宅・三渓園が完成。一般公開もされた。

原富太郎によって造成された三渓園

原富太郎によって造成された三渓園

明治に入った本牧は開国後の影響を大きく受けました。外国人居留地が置かれたことに加え、海岸には外国人向けのビーチも設けられました。また、この地は当時景勝地と見られていたため、国内の要人の別荘地が多く置かれていました。その代表例といえるのが三渓園です。三渓園は、横浜の生糸商人として財を成していた原富太郎によって造成された純日本式の邸宅で、1906(明治39)年から市民に開放されました。園内には、現在でも重要文化財や市の指定有形文化財となっている建物の数々が残されており、周辺住民が自然に親しむ場としてだけでなく観光スポットにもなっています。

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